ささぶねに乗って

小さな旅の記録と、アディクションを通しての出会いや別れや、猫たちとの日々。

日雇いバイトの説明会にいってみた

昨日は日雇い仕事(果物の出荷準備)の登録説明会にいってきたが、日雇い派遣についての法律の矛盾を始めて知った。 前々から「日雇い派遣原則禁止の例外」というものが読んでもよく理解ができなかった。 例外、つまり日雇い派遣で働いてよい人は ・60歳以上 ・学生 ・本業の収入が500万円以上 ・世帯の収入が500万円以上 というもので、これがなぜ「日雇いで働けない人」ではなくて「働いてもいい人」なのかよくわからなかった。 日雇い派遣とは、その日一日、倉庫や工場にいって軽作業を行うものだ。働きたい人は開いている一日だけを派遣会社に伝えて仕事をすることができる。 そういった単純で単価が安いが、少し体を使うような仕事を中心となってやっている人たちとはどんなイメージか?定職につけないフリーターか学生だ。ここでは学生はいいとしても他の条件が不思議すぎる。 高齢者や年収500万以上の人が日雇い派遣をやるのか? その矛盾で法律の文章が腑に落ちなかったのだが、昨日派遣会社のスタッフに聞いてみてはじめて文字通りなのだと知った。 法律を作った人間はどいう利潤があってこんな現実をみない内容を通したのか?怒りさえ感じる。 派遣会社がいうには、たいていの人は、年収500万以上(自分、もしくは家族)にチェックをいれ証明する書類が提出出来ないという項目にもチェックをいれた書類を提出するらしい。ここで現場において重大な事故が起きた場合、ちゃんと補償が適応されるのだろうかという疑問もわく。契約詐称ということになって適応外とはならないのだろうか。 私は、以前、ちゃんと有給や労災を適応させてくれる訪問介護事務所で働いていて、通勤途中でバイクの事故を起こし、手術や通院に長い期間かかったことがあったが、労災の適応ができて助かった。ところが他の事務所で働いていたヘルパーさんは事故で骨折したが、会社が労災手続をしぶってもめたと言っていた。ヘルパーも会社に寄って請け負いや業務委託形態を取ることがあり、ややこしいのだ。 とにかく、保険というものは万が一でも使うことがあるし、そういったときは結構深刻な状況なのだから軽く見ては行けない。保険適応がなされない仕事や、グレーな仕事をするときは納得したうえでやらないと。 といっても仕事がなくて追いつめられた状、用ではそうもいかない。

昨日の派遣会社では日雇い派遣に対して疑問がたくさんわいた。 それとは別に、契約書には「退職してから3年間(多分、写しをくれなかったため)関連業種につかない」ことを誓約させる項目があったのだが、これは憲法違反ではないかなー?あと、関連業種も「派遣」という意味なのか、実際の労働(昨日聞きに行ったのは果物の出荷準備)のことかな? 結局、果物の仕事は気温が12〜13度で寒いらしいのでやめることにしたが、求人広告をにぎわす単発バイト(日雇い派遣)は、若年層の生活を著しく不安定にするという印象が強かった。 私は今後も本業をやりつつバイトを探すのだが、全然みつからなかったら月に1度くらいお世話になっている会社で別業種を頼もうかなー。

感情に問題がある人のグループ・メモ

昨日は、午後からタッピングタッチのタッピングタッチの体験講座を開いた。時間が足りなくてセルフタッピングまではできなかったが、みんなとてもリラックスできたと好評だった。それだけでいいと思うが、依存症からの回復のためには、過去へのとらわれや未来の不安に圧倒されずに、「今ここ」に集中すること、そして今を退屈と思うことが引き金にならないように、自分に焦点を向ける感覚をみがくことをもう少し説明しながらタッピングタッチやマインドフルネスをやっていきたい。ミーティングの分かち合いというナラティブなやり方だけでなく、あらゆる回復の手段をみんなと共有していきたいと思っている。 とはいえ、神戸地域では私は話せないことがいろいろあるので、夜は十三の感情障害の自助グループにかれこれ、たぶん10年以上ぶりに行ってみた。 全然知らない人ばかりだった。AAやNAには10年選手、20年選手がどこにいっても数人はいるが、感情障害のグループなどではみんな調子が良くなるとこなくなるのか。でもそれもいいこと。みんなその時に自分にふさわしい場所にいけばいいし、自分が回復しても次の人にメッセージを伝えるためにずっと仲間と場所とつながりつづけるのもいい。それぞれが自分にとってよりよい今を選べるならそれでいいと思う。 私は次回もあのグループに行ってみようかと思う。それはそれでいい機会を与えられたと思っている。

ちゃんと朝型に戻す過程

4時48分起床。なかなかいい感じに起きられた。 だらだらギリギリまで寝ている生活はもうやめにすることにして、徐々に朝型に移行しつつある。

昨晩は、寝る間際に、下の息子の父が、息子をカナダに留学させようとしており、そのために多額の借金を予定していると知った。

15年も前に別れた下の息子の父は気のいい人だが、ゴミ屋敷に父子で住んでおり、息子も全く片付けもしない。私が買ってやったパソコンもゴミにうずもれてほぼ使っていない。高3なのに勉強なんてもちろんやれていない。そんな人に、「やればできるから」と言って毎月25万もかけて留学させて意味はあるのか。そりゃ、私が向こうで生んだから生地主義で取得したカナダ国籍を持っているが英語力はからっきしだ。

「やればできる」人なんて山ほどいるけど、それよりもやったかどうかが生きる過程であり、結果ではないか。 現実的にどうしても本人がカナダに行きたいなら、ワーキングビザがいらない利点があるのだから寿司職人とかで働けるように率先力のある仕事を短期で専門学校に行って身につけていくのがよいと思うが。しかし、本人がどうしても海外に行きたいと言っていたのでもなく、父親がたきつけただけだ。本人は、なんとアルファベットのAからZまで言えない始末なのだ。こんなやる気のない人に荷物を背負わせてどうするのかな?英語学校で学んだあとにカナダで理系に進むと言っているけど、母語で勉強出来ない人が外国語で出来ると思っているのかな?学費の安い国では大学進学率は高くても中退も多いと言うことはわかっているのか?

ゴミ屋敷を自分が片付けられないように、「やればできる」と「でもできない」ことの現実は、私自身そうだけど直視しないと現在地を見失う。そうすると進みたい方向さえわからなくなってしまう。 でも、聞く耳がない人には暖簾に腕押しなのだが、まあある程度は伝えないと。 けどまず自分がマインドフルネスをこれからやろう。そのためにちょっと早起きしたのだ。息子のことで困惑して忘れるところだった。その後、来年のサンチアゴに向けて勉強しよう。

かぼちゃ500グラムプリン

f:id:suginami74:20170727234716j:plain 今日は生活クラブ生協の宅配の日だ。私はこの時代にネット注文ではなく、紙の注文用紙で注文している。その理由は、いつも届いたその日に次の週の注文を書くため、次の週に届く頃には何を頼んだかすっかり忘れていて、箱を開けた時に意外な感じで新鮮なのが楽しいからだ。

さて、夜中の料理。今日のお題はかほちゃだ。無農薬丸ごと一個で370円。皮ごと食べられるんだから安い。このすてきなかぼちゃを大量に食べることにする。

 レシピ  【かぼちゃのしっとりケーキ】   かぼちゃ500グラム、牛乳400グラム、砂糖(エリスリトールを使う)70グラム、全卵4個。隠し味に塩。小麦粉60グラム。

エリスリトールはカロリーゼロの甘味料ですが、アスパルテームなどの人工甘味料とは違って天然の糖甘味料です。私が使っているのは遺伝子組み換え材料を使っていないフランス産のやつです。

→まずどんどんかぼちゃを切って蒸し器を入れた圧力鍋で蒸す。適当に加熱し、しばらく放置すればやわらかくなっている。

そのかぼちゃを計ってみるといい感じにレシピにほぼ忠実な501グラム。1グラムは気にせず、ミキサーに放りこみ。それにいつもの生協のノンホモ牛乳をどばどば加える。この時点でかなり蓋ぎりぎりまで水位がきている。エリスリトールと塩を加えてミキサーで泥状になるまで攪拌。 やばい、あふれそうだ。

さらに卵を加える。

ミキサーのスイッチを入れて蓋を押さえながら攪拌。 …あふれた…。

→小麦粉60グラムをいれることをあきらめる。→しっとりケーキではなく、かぼちゃプリンになる。かぼちゃプリンとしては成立するはず。   ただし、プリンにおける卵と牛乳の黄金比は 卵1:牛乳2 卵3の場合、牛乳は300グラムくらいが、しっかりしたプリンとしてはよい調合。でも牛乳が多かったらやわやわプリンになるだけで、許容範囲。かぼちゃも入れるし。

よく考えたら材料全部足したら一キロ以上になるんだ。考えてなかったな。

出来た液体は大量で、なんとかココット型3つと、大きなグラタン皿二つに流し入れた。

オーブンの受け皿にキッチンペーパーを敷いて熱湯を入れ、そこにプリン液の入った容器を並べて、170度で約40分蒸し焼きにする。 卵液だけのプリンだと、温度は140〜150度にして長時間蒸し焼きにしないとすが入るが、かぼちゃプリンはちょっと温度を上げても大丈夫。

まあ、ヘルシーといえるんだけど、大量に作りすぎたね。ひとりなのに。

私は肉をほとんど食べないので、そのかわりプリンをたんぱく質摂取のために、一年以上、毎日食べてる。 今日はオーブンを使ったけど、圧力鍋をつかって作ればもっと短時間で光熱費もあまりかからない。 とはいえ、私がプリンを作り始めたのはここ数年のこと。それまではなんとなく難しく思えていた。

たんに「作らないで死んで行く人生はつまらない」という気持ちだけで数年前からつくりはじめたけど、自分で作ると材料も味も自分で選べるから楽しい。 こんなに楽勝でおいしいなら20代の頃から作るんだったよ。 明日の朝食はかぼちゃプリンなのだ。

早朝の鳴き声

うーん、寝たのが遅かったため、5時半に起きようと思ってたのに、そとから猫の声(うちの猫)がするので5時前に目が覚めた。
 猫のでびが寝ている間に窓を勝手に開けて2階からでてしまっていた。うちはクーラーがないので窓を閉めて寝るわけにもいかない。猫は窓から出て、玄関に降りてそれで満足なのは知っているけど、今どき外に猫を出すのは猫の安全上でも、糞尿による住民への迷惑という点でもしたくないので出て行かないで欲しい。でも出たい気持ちもわかるし、私が対策をしなかったせいで猫が悪いわけでもないけど。

 3月の下旬に同居のはろうがいなくなってから、でびは一人で退屈なのもあるだろう。隣の人は自室でも猫を数匹飼っているが、庭で外の猫にもエサをやっているし、この辺りの人たちは地域猫にも優しいからたくさん外猫がいる。でびはちょっとだけ外に出て外猫と会ったり、隣のおばさんちをのぞいて、中にいる猫と会話したいだけなのだろう。
 はろうが帰ってこないなら、子猫を飼ってやった方がでびにはいいのかもしれないとも考える。
はろうがもういないなら、生まれ変わってまた玄関にいないか考える。はろうは最初、実家の生け垣のところにいた。そんなに小さくはなく、多分、生後半年くらいだったのではないか。でもはろうは成長すると誰が見ても「大きいなあ!」というくらいになったので、3〜4ヶ月だったのかもしれない。誰かが捨てたか、迷ってきた様子で、実家の人にも近所の会社の人にもフレンドリーな猫だった。実家で飼ってやろうとしたが、もともといた猫にいじめられて飼えなかったので私が連れて帰った。野良だったのか、捨てられたのかははっきりしないが、とてもフレンドリーな猫なのにずっと抱っこは嫌いだったから野良だったのかも知れない。

今年の3月28日に、病院に連れて行く途中でカゴが開いて逃がしてしまってから、もう4ヶ月が過ぎた。あれから私はろくに文章がまとまらないのだ。文学学校は休学し、フランス語も行かなくなった。6月までははろうを探すのにいろいろとやっていた。最初の一ヶ月は新聞に広告を入れたり、動物病院にビラを貼ってもらったり、自分でビラまきをし、5月にはタウン誌に掲載してもらった。地域猫にエサをやっている人にも会いにいった。そういう人たちの現れる時間帯が夜明けだったり夜だったりするので一苦労だった。保護猫譲渡活動をしている人にも会いに行った。6月は自分でビラをまいた。この地域の人たちは優しい人が多く、エサやりをしている人のところにわざわざ案内してくれたり、猫を見かけたからといって電話をくれてその場に連れて行ってくれたり、はげましの電話をくれたりと支えられる気持ちになった。

 ここの地域の人は迷い猫を虐待したりはしない。見かけたら保護してくれるかエサをやってくれるだろう。はろうは人懐っこいから慣れたら家にいれてくれるかもしれない。

 はろうはもう13〜14歳だったしあのときは調子が悪くて病院に行く途中だったのだ。食事もささみをフードプロセッサーでペースト状にしてやっていた。ドライフードは食べにくくなっていた。見つからないということは死んだのかも知れない。でもあんな大きな猫が都会で死んでいたとしたらにおいなどで誰かが気づくのではないか。清掃局にも電話をしたが、わからないとのことだった。ひとめにつかない溝の奥なんかで死んでいたとしたら、もうはろうの体は分解して流れてしまったろう。

薬はあったのに病院に連れて行こうとしなくてもよかったのだとか、カゴに入れていくとき、カゴの横は念のためにひもでしばったのに入り口もしばっておくべきだったとか、家の前にタクシーを呼ぶんだったとか、逃げた場所ですぐペット探偵を頼むとか捕獲器を借りて設置すべきだったとか、今となってはいろいろ思うが、そのときは思いつかなかっただから仕方ない。起った出来事は必然だったのだ。

とはいえ、この四ヶ月、ふぬけてしまい、何もかけないし、ろくに勉強もしてこなかった。

 来年はフランスのルピュイの道からスペイン・サンチアゴまで歩こうと思っているのでその準備に生活を建て直したい。

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ひさびさにブログを書くことにしました。で、テスト投稿。

毎日、描きなぐっていた時期から数年間音沙汰なしでした。Facebookを使い出して、きれぎれの雑文で人と交流する気楽さに慣れたせいもあるでしょう。それはそれで、むやみに深刻にならないところがいいと思います。私が依存症をこじらせたのは、まだネットも、それどころか携帯さえも普及していなかった頃で、一人でこもって考え込んでしまうような環境でした。深く考えることが出来るといえばそうでしたが、孤独感もひとしおで気づくと過食がとまりませんでした。当時、今のようにインターネットがあったらどうだっただろう…?やはり私の孤独は埋まらなかった様な気がします。病気の自覚や底つきを経て、仲間とつながり、自分の気持ちを言葉で表現したり、ハグして仲間と「いまここ」にいることを確認しあう中で、だんだんと一人ではないということがわかってきたような気がします。なので、もし当時、ネットがあって匿名の誰かとつながることができたとしても、自分自身の空虚感を直視出来ないまま都合のいい人を探し続けて表面的なつきあいを繰り返して自分も相手も傷つけただろうなあと思います。Facebookなんかは私の場合、主としてリアルなつきあいの延長だし、ほとんど深く気持ちを表す文章は載せていません。そういうのは実際に聞いてくれる仲間に話します。でもそれってめぐまれてるんだよな。仲間がいることや、自分が悩みや気持ちを口に出せること。そもそも口に出すまで自分の中でまとめられるってことは、たぶん最中のアディクトには至難の業です。

 そんな具合に、「あの頃」にくらべたら圧倒的にラクにはなっているのですが、日々安泰ではない生活について、スルー出来るところは流しつつも、少しは立ち止まって考えてみたいと思っています。

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