ささぶねに乗って

小さな旅の記録と、アディクションを通しての出会いや別れや、猫たちとの日々。

モリンガ茶や月桃茶を販売したい

昨日は母親とB型息子と一緒にネパールカレーのお店に行き、巨大なナンを食べてからお墓参りに行った。
しかし、このお墓に毎回いっているのもわれわれ3人だけで、しかも墓に刻まれている名前とは別の人たちなのだ。同じ名前の親族は全然来ないけど、これから先はどうするのかな?どちらにしたってその親族たちには後継者がいないわけだから途絶えてしまうが。諸行無常だね。


墓参りのあとは時間もあまりなく、明石のミーティングに行った。ここは落ち着いている。親しみはそんなにないが、時間の流れのゆったり感は深い。
ミーティングが終わってから仲間とコーヒーを飲んだ。彼に送ってもらっていたモリンガ茶月桃が私がもうやめるNPO法人では売れそうにないこと、私自身が法人とうまく関われなかったことなどを話した。私は売り上げに期待するというよりは、徳之島や与論島の仲間の活動と神戸での活動をリンクさせて世間の人たちに依存症からの回復を広めたい.そのためにお茶を売りたいし、徳之島や与論島なんてすごく遠くて、そんな遠いところとつながれるなんてそれだけでわくわく感がある。ただ、私に足りなくて絶対必要なのは金銭的なもうけに対する算段や、利益を求める心だろう。これは大切なことだと思う。どうも私は昔からもうけや利益に執着しない癖があって、そのためにいつも貧乏で、結果として金銭的な不安からすごくしみったれになっている。この欠点の改善と、女性自助でモリンガ茶を売れないかも検討してみよう。

リカバリーパレード関西 2017年

今日は、例によって朝は少しグループホームの巡回に行き、それから大阪のリカバリーパレードに参加する予定。


日曜日や祝日にホームに行ったのに、しばしば利用者みんなが出て行ってしまって誰もいないというむなしい任務ももうすぐ終わる。利用者が元気で主体的に遊びに行ったり友達がいたりということ自体はよいことなのだがやりがいは全くなかった。訪問介護などではケアは利用者がいる時と決まっているし利用者側もすっぽかさないことが求められる。このホームも本来はそういう決まりを作るべきだったのだが、創設した人たちがそこまで考えていなかったのだから仕方ない。

たぶん私の仕事への姿勢でよくなかった点は、利用者が基本的に自分と対等でいろんな能力があると考えていたことだろう。エンパワーメントを必要とする弱者で、私の支援により力をつけて延ばせると信じていれば、イネイブリングに喜びを感じられたかも知れない。だが私はそういうのが苦手だ。今日はリカバリーパレードに参加して、仲間の顔を見ればドアを開けて自分の世界に戻った気がしてほっとするだろう。
ドアのあっち側から戻って来たみたいな。
明日は仕事が休みで墓参りもあるし、少しは連休気分かな。

recoveryparade-kansai.jimdo.com

新月の願いも書く

昨日は三重県から遅く帰り、寝るのも12時回ったため目覚ましは5時55分に合わせた。涼しい朝だ。

今日のクロスアディクション女性ミーティングの小ワークは、「やめることリスト」にしよう。

それと、新月の願いが昨日の19時過ぎから金曜日あたりまでいい時期なので、合わせて書いてもらおう。自分がやりたいことやなりたいことを認めるって大事だもんね。自分探しみたいな壮大でちょっと厨二っぽいものではなくてもっとささやかで現実的なことでいいんだけど。
今年もあと三ヶ月なので残りの月にすること・したいことでもいいし、年度末までの半年にしたいことでもいい。
何がやりたいか明確にすることは大事だし、そのために余分なことをやめることも大事だ。
自分が何をしたいかわかっていないなら、現状に対し他人に不満を言わずに自分の中を探そう。やりたいことがわかればそれを疎外している現状を変えたり抜け出たりする方法を考えよう。

今日は三重県小旅行


今日は津まで義理のいとこに会いに行く。
彼が事故にあって丸一ヶ月過ぎた。事故の現場を見たけど原付は数メートル車に引きずられたようで、骨折で済んでまだよかったのかもしれない。
今年はほんとうにいろんなことがあった。
私も同居のはろうがいなくなってしまった。昨日、黒猫を保護した人のところに見に行ったが、違っていた。もう半年経つのではろうはいないのかもしれない。今も夜にバスを降りると名前を呼んで探してしまう。ほんとうは探しているわけでもないのかもしれない。玄関あたりで大きな声で名前を呼ぶと、私の声を聞きつけて、でびが中から鳴いている。
でびはひとりではどうもさびしいようで、過剰グルーミングが今もおさまらずにしっぽのあたりが薄毛のままだ。子猫を迎えることを真剣に考えてみようと思う。
まさか一緒に暮らしていたはろうがいなくなるとは…。
そして10月からは転職なのだ。12日後には新しい職場なのだ。この2年間でさびついてしまったがちゃんと社会復帰できるかな?
転職に伴い、自助グループの日時や場所も変えねばならない。たくさん変化がある。でも自分の健康状態はさして変わらない。体は魂のよりどころとして大切だ。

イムリーに、昨日先生からマインドフルネスの本をいただいた。

今日は電車の中で読んで行こう。そしてタッピングタッチ講座も秋からは開催したい。マインドフルネスも取り入れ、仲間の役に立てるようにしよう。

摂食障害のワークショップ

連勤6日目。明日は休み。今日もゆるい予定。
昨日の夕方電話があり、10月28日に摂食障害のイベントのゲストスピーカーで参加することになった。大好きな仲間たちだ。
東京のあのグループにつながったのは25歳の頃だった。上北沢の住宅街を歩いていた感覚を呼びおこすと、どちらに進んでいいのか全くわからない不安となにも生きる手がかりを感じられず、たぶん唯一はっきりくっきりしたリアリティが過食嘔吐だったのだろうと思う。

症状は治まらないままに参加したワークショップは、たしかグループにつながって1年少々たってからだった。そこで私は一人の仲間がいないことに気づき、なんだか予感がして彼女の家に電話をかけた。今のようにみんなが個人携帯を持っていない時代で、電話に出たお母さんが冬の日に彼女が自死したことを教えてくれた。

とにかく、私の周りの誰にとっても厳しい季節だったのだ。

あのあと、私は鬱病と処方薬乱用をこじらせて、関東から関西に転地療養したが、それ自体はいろいろと開けて行くきっかけになったと思う。ただしとても回り道だったけど。

摂食の仲間は私の自助グループ生活の原点だし、正直な話ができる。アルコールの仲間であるオッサンよりもいろんな話ができるし批判や冗談や無理解で返されることもない。もしかするとそこで対話するべきなのかもしれないが、私はそこまで相手に期待していない。

アルコール依存症業界では、今、なかなかアルコールが辞められない女性を見かける。周囲の支援者は手を焼いているし心配もしているが、いちどほんとうにやりたいように、生きたいようにさせてみたらどうなんだろう。みんな真綿のように優しく、そしてその優しさがなければ彼女は生きられないのだろうが、自分がほんとうに自分で歩いてみないと歩けないかどうかさえわからないのだ。そうなってやっと支えてくれた人のありがたさがわかるし、いい意味での依存ができるとおもう。それまでは依存症の症状というややこしい自己主張をし、自由にさせてくれない優しさに対して嫌みをするが、大人としてわかりやすい形での自己主張はできない。守られた中での逸脱をし、守ってくれていることを恨み、でも一人では歩けない。
そういうのって若いうちならいいんだけど、だいぶ大人になってから見せつけられると醜悪で思わず怒ってしまう。怒っていて気づいた。それは自分自身がやっていたみっともなさを思い出したからだ。

 

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今この瞬間の人間性

昨夜も夜更かししていたので、今朝は起きるのが若干ゆっくりになった。
台風が来そうだけど、さっきは少しオレンジ色の朝日もさしていた。
急に涼しくなってきたので布団を出してきたいけど、この天気だと使う前に干せないな。

今日は午前中はグループホームの巡回に行き、昼は天気次第で母親と会って食事。
午後からは読書会の予定だけど、これも大阪までいくのに天気次第では電車がどこかでとまってしまうかも。今日の課題本、アリス・マンローの『イラクサ』は、普通の人の日々の傷やささやかな欲望、でも掘り下げてみると醜悪にもなりかねず、とはいえ人間的な望みについて書かれていて私は好きな作品だ。

昨日はkiitoでロバートフランクの写真展を見た。
「写真にそなわっていなければならないものはただ一つ。今この瞬間の人間性だ」という彼の言葉がプリントアウトされていた。これは簡単でいて無意識にはできないことだろう。目の前に友人がいながら、SNSにアップする食べ物の写真に気を取られていたりすると。
昔、私が幼児だった時の写真を思い出した。祖父が撮ったものだ。もちろん一眼レフのフィルムカメラであり、デジタルではない。

祖父は暗室を作って自分で現像もしていたようだ。デジカメや携帯写真とは全く被写体との関わりも、時間との関わりも違う気がする。私はちょっと空の色が気に入れば携帯で撮ったりするけど、今の生活での時間とのつきあい方を変えたくて、違った方法の写真も撮りたいなとたまに思う。撮るのは簡単でも繰り返しのないポラロイドがいいな。
とはいえ、私は簡単に誰もが瞬間を切り取れるスマホ写真も嫌いではない。自分に関しては、スマホ写真の撮り方は安易だとは思うけど。

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継続して貧乏なのでたくさん遊びをみつけよう

昨日は気分のままに夜更かししたので今朝はちょっと遅く起きたが、まあいいや。
そしてコーヒーを飲みながら、10月の勤務日程などについて考えていると無駄時間をすごしてしまった。
10月は日曜日に二回出勤しないといけないだろう。あとは有休消化。それでやっと卒業できる。
新しい仕事にあたっていろいろ勉強したいな。精神保健福祉士会の集まりにも出来るだけ行くようにしよう。
すき間バイトも見つけないといけないが、なんとかなるだろう。
しかし私の周りは40代、50代でもそんな人たちばっかりだけど、サラリーマンの世界なんかでは全然違うんだろうな〜。われわれは高卒初任給レベルの手取りで転職を繰り返してる絶望的な負け組底辺に思えるかも。
詩のワークやら文学やら音楽やら、旅がリアルな世界の人たち、でも収入的には私とどっこいどっこいな人たちとの関わりがベースで普通になっているのでわりと日々しあわせだ。
こういう小さなしあわせがないと、ヘイトクライム生活保護バッシングに経済的閉塞感が向いて行く気がする。
個人の努力が報われることも大切だし、それによる格差は仕方ないと思う。しかし、最低限、経済的なルサンチマンが差別にいかない社会を作りたい。それはたとえばベーシックインカムが保証されて、個人の尊厳が保たれる程度の暮らしは誰でもできるということだ。あまりに格差が広がって中間層が疲弊していくと個人ではどうしようもない無力感の一時的な解消に差別や戦争の正当化がなされるのではないか。その場合、あくまでもそれはネット上の匿名の仮説や暴言であって、本人は戦争で殺されない位置に自分を置いているつもりみたいだけど。