ささぶねに乗って

小さな旅の記録と、アディクションを通しての出会いや別れや、猫たちとの日々。

今日は三重県小旅行


今日は津まで義理のいとこに会いに行く。
彼が事故にあって丸一ヶ月過ぎた。事故の現場を見たけど原付は数メートル車に引きずられたようで、骨折で済んでまだよかったのかもしれない。
今年はほんとうにいろんなことがあった。
私も同居のはろうがいなくなってしまった。昨日、黒猫を保護した人のところに見に行ったが、違っていた。もう半年経つのではろうはいないのかもしれない。今も夜にバスを降りると名前を呼んで探してしまう。ほんとうは探しているわけでもないのかもしれない。玄関あたりで大きな声で名前を呼ぶと、私の声を聞きつけて、でびが中から鳴いている。
でびはひとりではどうもさびしいようで、過剰グルーミングが今もおさまらずにしっぽのあたりが薄毛のままだ。子猫を迎えることを真剣に考えてみようと思う。
まさか一緒に暮らしていたはろうがいなくなるとは…。
そして10月からは転職なのだ。12日後には新しい職場なのだ。この2年間でさびついてしまったがちゃんと社会復帰できるかな?
転職に伴い、自助グループの日時や場所も変えねばならない。たくさん変化がある。でも自分の健康状態はさして変わらない。体は魂のよりどころとして大切だ。

イムリーに、昨日先生からマインドフルネスの本をいただいた。

今日は電車の中で読んで行こう。そしてタッピングタッチ講座も秋からは開催したい。マインドフルネスも取り入れ、仲間の役に立てるようにしよう。

摂食障害のワークショップ

連勤6日目。明日は休み。今日もゆるい予定。
昨日の夕方電話があり、10月28日に摂食障害のイベントのゲストスピーカーで参加することになった。大好きな仲間たちだ。
東京のあのグループにつながったのは25歳の頃だった。上北沢の住宅街を歩いていた感覚を呼びおこすと、どちらに進んでいいのか全くわからない不安となにも生きる手がかりを感じられず、たぶん唯一はっきりくっきりしたリアリティが過食嘔吐だったのだろうと思う。

症状は治まらないままに参加したワークショップは、たしかグループにつながって1年少々たってからだった。そこで私は一人の仲間がいないことに気づき、なんだか予感がして彼女の家に電話をかけた。今のようにみんなが個人携帯を持っていない時代で、電話に出たお母さんが冬の日に彼女が自死したことを教えてくれた。

とにかく、私の周りの誰にとっても厳しい季節だったのだ。

あのあと、私は鬱病と処方薬乱用をこじらせて、関東から関西に転地療養したが、それ自体はいろいろと開けて行くきっかけになったと思う。ただしとても回り道だったけど。

摂食の仲間は私の自助グループ生活の原点だし、正直な話ができる。アルコールの仲間であるオッサンよりもいろんな話ができるし批判や冗談や無理解で返されることもない。もしかするとそこで対話するべきなのかもしれないが、私はそこまで相手に期待していない。

アルコール依存症業界では、今、なかなかアルコールが辞められない女性を見かける。周囲の支援者は手を焼いているし心配もしているが、いちどほんとうにやりたいように、生きたいようにさせてみたらどうなんだろう。みんな真綿のように優しく、そしてその優しさがなければ彼女は生きられないのだろうが、自分がほんとうに自分で歩いてみないと歩けないかどうかさえわからないのだ。そうなってやっと支えてくれた人のありがたさがわかるし、いい意味での依存ができるとおもう。それまでは依存症の症状というややこしい自己主張をし、自由にさせてくれない優しさに対して嫌みをするが、大人としてわかりやすい形での自己主張はできない。守られた中での逸脱をし、守ってくれていることを恨み、でも一人では歩けない。
そういうのって若いうちならいいんだけど、だいぶ大人になってから見せつけられると醜悪で思わず怒ってしまう。怒っていて気づいた。それは自分自身がやっていたみっともなさを思い出したからだ。

 

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今この瞬間の人間性

昨夜も夜更かししていたので、今朝は起きるのが若干ゆっくりになった。
台風が来そうだけど、さっきは少しオレンジ色の朝日もさしていた。
急に涼しくなってきたので布団を出してきたいけど、この天気だと使う前に干せないな。

今日は午前中はグループホームの巡回に行き、昼は天気次第で母親と会って食事。
午後からは読書会の予定だけど、これも大阪までいくのに天気次第では電車がどこかでとまってしまうかも。今日の課題本、アリス・マンローの『イラクサ』は、普通の人の日々の傷やささやかな欲望、でも掘り下げてみると醜悪にもなりかねず、とはいえ人間的な望みについて書かれていて私は好きな作品だ。

昨日はkiitoでロバートフランクの写真展を見た。
「写真にそなわっていなければならないものはただ一つ。今この瞬間の人間性だ」という彼の言葉がプリントアウトされていた。これは簡単でいて無意識にはできないことだろう。目の前に友人がいながら、SNSにアップする食べ物の写真に気を取られていたりすると。
昔、私が幼児だった時の写真を思い出した。祖父が撮ったものだ。もちろん一眼レフのフィルムカメラであり、デジタルではない。

祖父は暗室を作って自分で現像もしていたようだ。デジカメや携帯写真とは全く被写体との関わりも、時間との関わりも違う気がする。私はちょっと空の色が気に入れば携帯で撮ったりするけど、今の生活での時間とのつきあい方を変えたくて、違った方法の写真も撮りたいなとたまに思う。撮るのは簡単でも繰り返しのないポラロイドがいいな。
とはいえ、私は簡単に誰もが瞬間を切り取れるスマホ写真も嫌いではない。自分に関しては、スマホ写真の撮り方は安易だとは思うけど。

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継続して貧乏なのでたくさん遊びをみつけよう

昨日は気分のままに夜更かししたので今朝はちょっと遅く起きたが、まあいいや。
そしてコーヒーを飲みながら、10月の勤務日程などについて考えていると無駄時間をすごしてしまった。
10月は日曜日に二回出勤しないといけないだろう。あとは有休消化。それでやっと卒業できる。
新しい仕事にあたっていろいろ勉強したいな。精神保健福祉士会の集まりにも出来るだけ行くようにしよう。
すき間バイトも見つけないといけないが、なんとかなるだろう。
しかし私の周りは40代、50代でもそんな人たちばっかりだけど、サラリーマンの世界なんかでは全然違うんだろうな〜。われわれは高卒初任給レベルの手取りで転職を繰り返してる絶望的な負け組底辺に思えるかも。
詩のワークやら文学やら音楽やら、旅がリアルな世界の人たち、でも収入的には私とどっこいどっこいな人たちとの関わりがベースで普通になっているのでわりと日々しあわせだ。
こういう小さなしあわせがないと、ヘイトクライム生活保護バッシングに経済的閉塞感が向いて行く気がする。
個人の努力が報われることも大切だし、それによる格差は仕方ないと思う。しかし、最低限、経済的なルサンチマンが差別にいかない社会を作りたい。それはたとえばベーシックインカムが保証されて、個人の尊厳が保たれる程度の暮らしは誰でもできるということだ。あまりに格差が広がって中間層が疲弊していくと個人ではどうしようもない無力感の一時的な解消に差別や戦争の正当化がなされるのではないか。その場合、あくまでもそれはネット上の匿名の仮説や暴言であって、本人は戦争で殺されない位置に自分を置いているつもりみたいだけど。

来年はケアマネジャー受験をしたいな

すばやく起きて、コーヒー飲みながらおから入りカップケーキ作り中。
今日は二カ所のグループホームで調理に回らなければならないが、もう一ヶ月先には全く違う仕事をしているのだからなんとかがんばろう。
転職は非正規だし不安定だが、かえって「なんとしてもメシ喰わねば!」という感じになり、来年はもう取らなくていいかなと思っていた介護福祉士とケアマネジャーの受験をしようという気になってきた。

今の職場の仕事が単に家事手伝いでほんとうにやりがいがなかったため、社会福祉士会もやめ、依存症関連の学会も入るのを辞めてしまったが、かえって非常勤に舞い戻ることにしてやる気が出て来た。本も買って勉強しよう。

介護関連資格にしても、精神保健福祉士の仕事をやっていくにせよ、介護や認知症については理解とサポートが出来る力をつけたほうがいいのだ。資格試験は必ずしも現場での支援力とは直結していないが、知識を学機会としては最適だと思う。

自分の親も自分自身も年を取って行くのだから加齢にともなう生きづらさについてももっと考えて行きたい。
そういえば、来月は大叔母様の生誕100年アニバーサリーが催されるから是非参加しろということだ。はっきりって大叔母様はひいばあちゃんほど知らないのだが、私がにぎやかしに座っていても存在価値があるらしいから行こうかな。
ばあちゃんは最後の3年は造血機能がなくなって入退院の繰り返しだったが大叔母様は元気だ。
医学が発達したと言って、あまり無理矢理に延命するのはいかがかと思うが、それは私が今元気だから言えることかも知れない。生き死にに対して自分なりに腑に落ちなければずるずる生きたくなくても死にたくないかもしれない。

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テオヤンセン展

昨日は三重県立美術館のテオヤンセン展に車いすを押したり伴走しながら行って来た。車が美術館街で道路にずらずら並んでおり、混んでる場所が嫌いな私は「も〜かえろうかな」という気持ちになったが、実際の美術館は大阪や神戸にくらべりゃマシだ!という感じで割とゆっくり観られた。
美術館で車いすの横にしゃがんで変に自撮りを試みていると、若い女性が「撮りましょうか」と撮ってくれた。そういうコミュニケーション、いいな。
その後は、駅ビルのダイソーに行ったが、直であがれるエレベーターがなく、荷物・職員用の裏エレベーターを借りた。私が大昔に東京で障害者介助をやっていた頃は、なんと新宿駅なのにエレベーターがないといったことがざらだったが、バリアフリーの今の時代でも、やっぱりバリアはたくさんある。
買い物のあとは、堤防で猫に会いに行きたいとのことでタクシーで行った。
彼の猫仲間が3人来てくれ、猫も機嫌よく穏やかな時間を過ごした。
その後も、市民運動をしている方に会いたいとのことで立寄った。
今日も半日外にいて、ばたばただった。
足浴をしてあげ、背中を拭いているともう帰りの時間が近づいていた。
10月からバイトも探さないといけないが、なんとなくガイドヘルパーに復帰しても勤まる感じ。
彼にはまた10日後に来ると伝えて近鉄とJRとバスを乗り継いで帰宅。帰りは10時半になったが、まだたくさんの人がバスに乗っていた。
楽しい一日だったな〜。あと半日くらいゆっくりしたいなー。

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今にいることについての料理の効果

 

f:id:suginami74:20170907085215p:plain今朝は5時半に起きて、さっそくバナナパンを作りました。私はよくパンやらスコーンを作っていますが、それは第一に弁当用という経済的理由に寄ります。今日はバナナがもうタイムリミットに熟していたので使わねばならないという使命も負っていました。

 

ところで、今年のやらないことリストには「料理をしすぎること」も記入しました。特に夜、だるくて何も出来ないときはパンやらスコーンやらプリン作りで時間を使ってしまいます。もちろん弁当用という名目はありますが、時間との関係を考えると他のことを犠牲にしすぎるね、とは思っていました。

 

しかし、料理のよいところは「今に集中できる」ということです。手や目を使い、場合によっては味覚も使い、材料の具合を観ることに集中するので私の場合は雑念があまり入らないように思います。しかもたいてい自分のために作っているので、他者への期待がありません。

 

これはある意味、マインドフルネスでよくやるレーズンを使った「五感を駆使しながら今ここにとどまる」というワークに通じるところがあると思います。

とはいえ、過度に料理に無自覚に時間を使うことはたんなるアディクションの一形態や、逃避に似ていることも事実です。

 

できるだけ今にいることや五感を使うことを客観的に眺めながら料理をしようかな。そんなことをしていたら楽しくないだろうか?でも現実逃避で時間を費やす感覚の料理も楽しくない上に「今日も勉強もやらないといけない連絡もせずにパンで終わった…」と感じることが多かったからこそ、今年のやらないことリストに料理のしすぎがあがってきていたので、要はいい感じで折り合いをつけることかなー。

バナナパン(チーズ入り)はおいしくできました!